2009年10月27日

さようならネコちゃん

ちょちょが死んでしまった。
信じられないことだが…。

10/25の午前、ちょちょのお母さん(飼い主さん)が我が家のインターフォンを押した。「ちょちょです」と行ったそうだ。
子供達は「ちょちょが来たよ」と2階にいた私に教えてくれた。急いで、私は下に降りた。でも、ちょちょがいない。ちょちょのお母さんは「ちょちょが死んでしまったんです…」と玄関で言う声が聞こえた。嫁が対応した。何がなんだか。

1週間ほど前、ちょちょを家に送っていった次の日から呼吸器が調子悪くないり、5日間ほど動物病院に入院し死んでしまったそうだ。あるウイルスによることが原因らしい。virus(バイラス)の正式名称は聞いていないが、めずらしいウイルスで、「人間とは関係ない・ケンカの傷とも関係ない・そのウイルスのキャリアー(猫)が通った後を歩いただけで感染する」と説明されたそうだ。

死んだ次の日に、我が家に教えてくれて感謝している。ちょちょに会いに行くかと、朝食時に本当に話していたのだ。
本日、火葬するとのことだった。その後、子供たちとちょちょちゃんに会いに行った。本当に死んでいた。入院する前、外に出たがり、我が家に遊びに行きたかったのでしょうと飼い主さんは言われた。ちょちょもお宅で可愛がってくれて幸せでしたと。

私達こそ、幸せにさせてもらいました。

飼い主さんにお礼を言った。

ちょちょ、さようなら。

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2009年10月24日

ねこの名前

 我が家で「トラ」と呼んでいたネコの本当の名は「ちょちょ(チョチョ)」という。


 もう1カ月以上になるが、うちの嫁がちょちょを捜している飼い主(奥さん)と話をしたそうだ。ちょうど、飼い主が我が家の前を通ったとき。その奥さんの話だと、ちょちょがこちらお家の前にいることは確認していた。「帰るよ」と何度が一緒に帰ったが、ついてこない時もある。とりあえず、帰ってくるがすぐ出かけることが多い。帰ってきたときは、ご飯を食べている。また、アレルギー用の目薬をつけあげている。これから、去勢手術をする予定だが、アレルギーや怪我が治ってからとのこと。などなど。


 その週末、私も飼い主の女性(40代)と話すことができた。確か土曜日の昼頃、ちょちょが我が家のイチイとツツジの間で寝ているとき、飼い主は「ちょちょ」と言いながら歩いてきた。嫁から話を聞いていた私は、挨拶をし、ちょちょちゃんは今ここで寝ていますと伝えた。道路から「ちょちょ、帰るよ」と呼びかけても熟睡している。「まあぁ〜」かなりあきれていた。

そのとき話したことをまとめると、

 1 ちょちょはオスで3歳。こう少しで去勢手術する。アレルギー体質。けっこう気が弱く、近所の猫と喧嘩をして負傷した。(頭の毛、前肢の腫れは以前報告した)
 2 ちょちょの家は我が家から約200m。チョチョは2階から自由に出入りできる(夏季のみ)。その家にはもう一匹猫(雌)がいて、その猫は外に出ない。高校生と中学生の子供がいて、子供たちは猫のことを特に可愛がっているわけではない。ちょちょが負傷した後、外に出ないようにしたが網戸をやぶって外出した。
 昨年あたりから、我が家周辺では人なつこい猫として知られていたらしい(隣の奥さん情報)。


 その後、我が家に4回ほど泊った。それは帰ろうとしない時だった。2回ほどだっこして家まで送っていったが、またついてきた。ちょちょの家に行くには1回角を曲がるが、曲がってから「ふぅーうーうー」という一種のうなり声を上げる。1度は玄関前に下ろすと「しゃーっ」と猫独特の威嚇する声を発した。
 後半の2回の宿泊では朝、嘔吐していたので、嫁に送ってもらった。そこでまた新たな情報を得た。
 
 ちょちょと喧嘩をした近所の猫(灰色猫)は、よくちょちょをいじめるそうで、勝手にちょちょの家にも入り込んでくるらしい。もう一匹の雌猫をいじめたりはしない。

 どうやら、ちょちょはそのボス猫がいやで仕方ないらしい
 我が家は一種のシェルターということだった。
 
 ここ数日、天気が悪かったので、ちょちょは遊びに来ていない。来るときちんと帰るだろうかと心配だが、来ないとさびしいものだ。

  夜、木のぼり遊びをするちょちょ
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  私の邪魔をするちょちょ
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2009年09月01日

夏の生き物

ハナイグチ
8月29日(土)、今年初めてキノコ採りに行ってきた。
ほとんど採れなかった。
人の方が多いかも。
あるおじさんとお話したが、2週間前は結構採れたそうだ。
8月に現場に来たのは初めてで、この時期から確かに
ラクヨウはでているのがわかった。
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 アゲハ
今年の7月は雨ばかりだった。
8月に入り、いつものようにサンショウの木にアゲハがやってきた。
いつもより遅い。卵を見ると黄色でなく白色のものも多い。
この白い卵は未受精卵のようで孵化していない。
こんなところで気象の影響を見ることができた。
いつもは、幼虫に食べつくされるサンショウの葉も今年は元気。
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ネコ
いつも遊びに来るトラちゃん
一時期、夜も帰らずうちの家のまわりにいたようだ。
ここ数日は家に帰っていると思われる。
朝、夕方はきちんと遊びに来る。
帰らないときは、困ったなあ〜と思ったが、
来ないときがあると心配になる。
勝手なものです。
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カンタン
先ほど、ネコと遊んでいたら家のトマトの苗のところに
カンタンが来ていた。あの涼しげな泣き声が聞こえた。
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2009年08月16日

1Q84 村上春樹

10日程前、村上春樹著「1Q84」を読み終えた。
感想文は私の最も苦手とするところ。
2冊で長編に分類されるが、おもしろかったのは事実。
ただ、いつもの比喩はさえわたってはいなかった。
これは、一人称の「僕」と今回の三人称に関係あるのかも。

CD販売店ではヤナーテェックの「シンフォニエッタ」の棚があった。
一応、予想通り。

私の感想より、それなりの人の書評は確かにうまい。

個人的には、福岡伸一の表現はわかるよ。


北海道新聞
2009614


評・黒古一夫(文芸評論家)


「魔=悪」が照らす本質


 著者が1995年に起こった阪神・淡路大震災とオウム真理教事件から、この世の中には理性や常識では解決できない「魔」としか呼びようのない何ものかが潜んでいると覚知し、以後追求すべき文学的主題を転換させてきたことはつとに知られている。5年ぶりの新作である本作品は、ジョージ・オーウェルの「逆ユートピア」を描いた近未来小説「一九八四年」からヒントを得て、「1Q84年」という「もう一つの年」に顕在化したカルト教団をめぐるさまざまな出来事 を描き、本質的な存在である「魔=悪」から目をそらしている私たちの「現在」を照らし出そうとしたものである。

 
 両親がキリスト教系の教団「証人会」信者であり、自分もその布教活動に連れ回されていた「青豆」と、父親でない男に乳を吸われている母親の姿を記憶の原点とする「天吾」は、10歳の時にお互いを必要な存在と意識するようになる。しかし、その後20年間、2人は会うこともなく、青豆は今ではスポーツジムのインストラクターをしながら「女の敵」を抹殺する裏の仕事もやり、天吾は予備校の講師をしながら小説を書いている。本長編は、この2人のついに邂逅することのない物語が交互に展開する形で進行する。物語を彩るのは、例えば学生運動であり、体制に背を向けた「コミューン」や「カルト教団」の分裂、現代版「駆け込み寺」の姿であり、「父子(家族)」の物語である。

  読者は、この小説の大切な要素でありながら、意味不明な(SF的な)「空気さなぎ」や「リトル・ピープル」とは何かなど、について思いを巡らしつつ、いつしか必死におのれの「思い」に忠実な青豆と天吾の「恋愛」成就を願うことになる。しかし、「魔=悪」はそんなに甘くなく、青豆は天吾と邂逅するまえに自死を選択せざるを得ず、物語は終わる。


 
 朝日新聞200967

[
評者]鴻巣友季子(翻訳家)

 
 「根源悪」を追究 何かが変わった

 
なにか吹っ切れた感じがする。あのとき感じた「意志」は実践されたのだ――7年ぶりの新作長編を読みだしてすぐにそう思った。前作の中編『アフターダー ク』には、深い森から踏みだす決意のような、飛び立つ直前の構えにも似た気配が漂っていた。『1Q84』には、新しい村上春樹がいる。読者は「何かが変わった」と感じるだろう。その一方、やはり村上ワールドは不変とも思うだろう。

 オウム真理教の問題に向きあい、90年代に2冊のノンフィクションを書いた作者が、事件から14年を経てカルト教団を素材に小説を発表した。舞台はイラン・イラク戦争が続くバブル以前の1984年。予備校講師をしながら小説家を目指す「天吾」と、スポーツジムに勤めながら非道な男たちの殺しを請け負う女性「青豆」2人の視点で交互に語られる。ある少女の暗示的な作品『空気さなぎ』を元に、危険な替え玉出版が企画された頃から、世界は変調をきたしていく。実在とおぼしき宗教団体や農業コミューン、家庭内暴力のためのシェルター、性描写も盛りこまれ、しかもパラレルワールドの仕掛けがあって、どこまでも飽きさせない。娯楽性も最も高いと言えるだろう。他方、これは「家をなくした子ら」の物語でもあり、書く(書き換える)ことと記憶と再生を巡るモチーフを布き、オーウェルの『1984』的な思想統制の恐怖と根源悪を追究した反ディストピア小説でもある。現実と虚構は境をなくし、因果関係が反転する。作者の扱ってきたテーマがぎっしりの力作だ。

 色々な人の視線とパースペクティブと世界観が絡みあうドストエフスキー的な小説を書きたい、それには三人称で書く必要がある、と近年の村上春樹は語ってきた。予告通り、本書は初の完全な三人称長編だ。なぜ作者が長らく一人称一視点の文体を多用したかと言えば、その形式でしか表現できない精神があったから。そこには全体を見通せないことの憂鬱が書きこまれ、いわば「視野狭窄」の不安感が物語の牽引力の一つとなっていた。一人称の可能性を駆使しながら、しかし村上春樹は三人称多視点の小説へ確実に近づいている観があった。人称と視点の変化は、作品の精神の変化を意味する。

 そうして周到に書かれたでろう『1Q84』は、「メランコリーの繭」とその温もりから抜けだした印象がある。淀みない筆致は各主題の掘り下げを潔く読者に委ねているようにも見える。主人公たちは教団リーダーの意思をも超えた根源悪に対する抗体として描かれるが、しかし敬虔な信仰とカルト的狂信の境界が極めて曖昧なように、人のいかなる信念にも狂気の影はつきまとう。ならば、「あなたのあり方自体が宗教だ」と教団リーダーに言わせるほど信念に揺らぎのない青豆と彼女が加担する「殺人グループ」にも、カルトの匂いが感じられはしまいか。

 三人称の導入が「色々な人の世界観」を引き入れ、人々の視点と多声が交わり響きあう小説となり得ていれば、信心と狂気、善と悪、夢とうつつの相対関係を当事者外の目でも浮かびあがらせ、主題を個人の秤だけに載せず、さらに多角的に描くことも可能だったろう。よく見れば、本作は一人称にほぼ変換可能な三人称一視点の並置で概ね書かれている。その点では、文体の基本構造は既作にも見られるものであり、変わった のは大方、人称だけで視点ではない。とはいえ、このあたりがまた「村上節」を堪能できる部分でもあるのだ。それにしても、未回収に終わる謎 伏線がずいぶん多いが、もしや第三巻以降が出るのでは?

 しかし続きがなくても、それはそれで作者の姿勢を鮮やかに表明するものではないか。作中、天吾の言葉にもある通り、読者が最後まで疑問の中に置かれるなら、それは「著者の意図したこと」なのだろう。本作には、書かれた物語と書かれなかった物語が同じぐらい豊潤に含まれている。読み手の中でいつまでも「書き直して」いける作品、それこそが傑作の名に値するのだ。

 メランコリーの夜は明けた。

 

読売新聞 200968 

存在内部の空白を埋める愛

 手にとればもう読むのをやめられない。あなたは現実世界の「いまとここ」を忘れ、待ちに待った村上春樹の新たな物語世界に没入している。「春樹的」と形容するほかない魅力的な比喩の数々。用いられる個々の表現の的確さとその響き、言葉と言葉、文と文のつながりを含め、どんな細部もゆるがせにしない、徹底的に考え抜かれ彫琢された音楽的な文章。頁を繰りながら魂の扉がとんとんと叩かれているのを感じるはずだ。扉を開く。すると心の内側なのか外側なのかわからないそこには、あなたのものであり、かつ誰のものでもある光景が開かれている。このきわめて親密でありながらどこか遠い普遍的な風景に出会うこと、あるいはそれを思い出すこと。村上春樹を読むとはそういうことだ。

 本作は各巻が24章から成り、奇数章では、指先に特殊な才能を持つ、青豆という風変わりな名の女性の物語が、偶数章では、天吾という小説家志望の予備校数学教師の物語が描かれる。青豆は首都高速道路の非常階段を降りることで、彼女が生きていた1984年の現実とは微妙に異なる「1Q84年」の世界に入り込んでしまう。一方、天吾も「ふかえり」という17歳の謎の少女の小説『空気さなぎ』を書き直したために奇妙な事態に巻き込まれ、彼のそれなりに充足した日常からは均衡が失われていく。

 青豆も天吾も不幸な幼年期を送っている。この小説に登場する多くの者は暴力の犠牲者であり、心と体を無惨に破壊されている。DV、児童虐待、宗教的狂信と名称は様々でも、暴力を生み暴力が生む「闇」は、いつの時代でも存在する以上、青豆と天吾の生きる1Q84年は、紛れもなく私たちの世界なのだと言える。

 物理的なものであれ象徴的なものであれ、暴力は人間の存在の内部に「空白」をうがつ。この空白をネガティブな力で埋め尽くし、底無しの虚無に変えようとうごめく巨大な闇に対して、小説に何ができるのか。村上春樹はそのことを問い続けてきた。答えは各自が各様に見つけるほかない。だがヒントはある。

 天吾は十歳のとき、ある女の子に手を握られる。そのとき彼女の存在の一部を、生命の温もりを確かに受け取り、それがずっと彼の意識の中心を満たしてきた。青豆もまた十歳のとき、一人の男の子に出会い、彼を一生愛し続けるのだと決意する。その愛が存在の中心にあればこそ、親友の自死など苛酷な経験を耐え、生き続けることができたのだった。強く、深く、人を思い続けること。そのとき世界は空に浮かぶ月とは違って孤独ではなくなる。これは途方もない愛の物語である。


評・小野正嗣
 おの・まさつぐ
 1970年、大分県生まれ。作家、明治学院大学専任講師。『にぎやかな湾に背負われた船』で三島賞。
 



遺伝子支配に対抗する均衡


 冒頭から読者は強い流れに引き込まれる。その強度はこれまでのどんな作品よりも大きい。やがて読者は当惑に直面する。「リトル・ピープル」をめぐって。夜ごと、山羊(やぎ)の口から出てきて「空気さなぎ」を作る不可思議なこびとたち。実体があるのかないのかわからず、善悪もわからない。ただそれは「着実に我々の足元を掘り崩していく」存在として登場する。

 リトル・ピープルは本書最大の謎である。それは1Q84年の世界において、目に見えないながら私たちの内部にひそむものとして描かれる。その点が オーウェルの『1984年』における、外的な支配者「ビッグ・ブラザー」とは違う。彼らは「山羊だろうが、鯨だろうが、えんどう豆だろうが。それが通路でさえあれば」(傍点は評者)姿を現し、私たちを徹底的に利用する。利用価値がなくなればたやすく乗り捨てていく。そういうものとして描かれる。

 現在、私たちは私たちの運命を収奪し、一義的に因果づける内的な存在を知り、それを信奉している。それはえんどう豆の研究から見いだされたところの遺伝子(的なもの)である。もちろん遺伝子は物質以外のなにものでもない。しかしひとたび、それが小さいながらも擬人化されて捉えられると、利己的な意思と意図を帯び、世界と私たちを支配するために動き出す。

 遺伝子の究極的な目的は永続的な自己複製である。「母(マザ)」からクローンとしての「娘(ドウタ)」を作り出すこと。そのメタファーが「空気さなぎ」ではないだろうか。

 しかし青豆は問う。「もし我々が単なる遺伝子の乗り物(キャリア)に過ぎないとしたら、我々のうちの少なからざるものが、どうして奇妙なかたちをとった人生を歩まなくてはならないのだろう」と。

 遺伝子が利己的な支配者に見えるのは、私たちがその物語を信じ、身を委ねたいからである。そこに私たちがたやすく切り崩されてしまう契機が潜んでいる。それはかつて外側に存在していたビッグ・ブラザーを内側に求めることに等しい。リトル・ピープルに象徴されるこのような不可避的で、それでいて誘惑的な決定論に対抗するには、一つ一つの人生を自分の物語として自分で語り直すしかない。重要なのはその均衡であり、均衡は動的なものとして、可能性の在処(ありか)を示す。そう本書は宣言している。

 私たちは時に合理性を無視し、利他的に行動しうる。その動因として私たちは自らの内部の核に、自らの複製ではない「さなぎ」をはぐくむことができる。本書の結末をそういう風に私は読んだ。

評・福岡伸一
 ふくおか・しんいち
 1959年、東京都生まれ。分子生物学者、青山学院大教授。著書に『生物と無生物のあいだ』『動的平衡』。
タグ:村上春樹
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壁と卵

村上春樹のエルサレム賞受賞時のスピーチ「壁と卵」について気になっていたので

斉木広一氏が引用した産経新聞の福島敏雄氏の文

http://www.news.janjan.jp/culture/0904/0904221982/1.php
村上春樹の受賞スピーチ「壁と卵」は巧妙なレトリック?
 斉喜広一 2009/04/30

 作家・村上春樹氏がエルサレム賞受賞のスピーチで「壁」と「卵」を比喩に使って、心境を語り、耳目を集めた。この話を過日、産経新聞論説委員が取り上げ、分析していた。世間一般とは大いに違う受け止め方だったので、これを参考に比喩の真意を考えてみた。

 
【耳目を惹いた産経コラム】 

 既に旧聞に属することだが、作家・村上春樹氏が、エルサレム賞受賞にあたって、イスラエルで行なった「壁と卵」と題する記念講演について、産経新聞論説 委員・福島敏雄氏が、同紙の4月18日付で、ちょっと耳目を惹くコラムを書いている。題して「『壁と卵』は何の比喩か」。 (注 エルサレム賞 イスラエル最高の文学賞。2年に1度、選考される)

 「壁と卵」という比喩については、日本でも議論が起きた。が、福島氏はまず「村上ともあろう文学者が、こんな単純な比喩と二元論でイスラエルを批判する だろうか」、と切り込んでいる。そして、「村上はそうとうに入り組んだレトリック(修辞法)を駆使して、発言している」という。 

 「もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます」と、村上氏は講演で述べる。そして、「卵」は 殻の中に「魂を持った個々の人間」、「壁」は「爆撃機や戦車やロケット弾や白燐(はくりん)弾や機関銃」を指す、としている。 

 【キーワードは「システム」】 

 
 この比喩は、「壁」=イスラエル、「卵」=パレスチナ、と日本では受け取られ、それを前提とした論評、議論がなされてきた。が、それは、日本の記者たち による「誤読」である、と福島氏は言う。そして、「ポイントは、これに続けて述べたキーワードを理解できなかったためであろう」と指摘する。そのキーワードとは、「システム」だ、というのだ。 

 村上氏は「卵と壁」について、こうも言っている。「その壁は名前を持っています。それは『システム』と呼ばれています」と。 

 そこで、福島氏は「『システム』は関係概念であって、実体概念ではない。つまり、イスラエルやテロ集団などといった『実体』を指していない」と、鋭く指摘する。 

 一方で村上氏は、『文藝春秋』(4月号)でのインタビュー記事「僕はなぜエルサレムに行ったのか」の中で、「システム」とは「シオニズム」や「イスラム 原理主義」、あるいは「オウム真理教」や「1960年代の学生運動の原理主義」である、と具体例を示している。これらは、講演では述べなかった事柄である。 

 そこで福島氏は言う。「イスラエルの国民は、他国の文学者に自国を批判され、拍手を送るほどの寛容さを持ち合わせているとは、とても思えない」。なのに、なぜ拍手を送ったのか。それは「イスラエルの聴衆は村上の言う“The System”を、日本の記者よりはよく理解していた」からだという。 

 つまり、この福島氏の論説では、村上氏が批判したのは、「壁=爆撃機=イスラエル」という実体概念ではなく、「システム」という関係概念である。だからこそ、日本では「壁」という語に捉われて、「イスラエル批判」と誤読して受け取られたのである。一方、イスラエルでは「システム」という語を正しく理解したから「拍手」で受け入れられたのだ、と締めくくる。


   【村上は巧妙なレトリックを使ったのか】 

 さて、ここから、筆者の論考に移る。 

 村上氏は確かに、講演で「壁」は「爆撃機」や「戦車」や「ロケット弾」や「白燐弾」や「機関銃」を指す、と指摘している。問題はここである。「爆撃機」「戦車」「白燐弾」「機関銃」とくれば、これは「イスラエル」を連想せざるを得ないだろう。ましてや、「壁」という言葉自体から連想するのは、実際にヨルダン川西岸地区とイスラエルとの境界に建てた「壁」そのものを連想するのは、極く普通のことではないか(うがった見方をすれば、村上氏はあえて日本の記者 たちに「誤読」させたとも受け取れる)

  村上講演の巧妙(こういう言い方は適切でないかも知れないが)さは、わずかに「ロケット弾」という語を忍ばせて(それが「ハマス」を指すことをもって)、イスラエル国民に対する、自らの立場の中立性を担保したことであろう。 

 そして、そのことをイスラエルの「聴衆はよく理解」したから、拍手を浴びせたのだ、と産経・福島氏は言う。一方、日本の記者たちは、「壁」=「イスラエル」と誤読したのだ、とも言う。 

 もし、福島氏の分析が正しいとするなら、こういうことも言えまいか。   村上氏は、イスラエルに対しては、「システム」「ロケット弾」という言葉で、自らの(イスラエルの立場も考えているとの)アリバイを担保し、また、日本 (特に受賞に反対する人たち)に対しては「壁」「白燐弾」という言葉で、イスラエルを一方的に批判したかのような、立場をも担保した。 

 つまり、俗な言葉で言えば、村上春樹氏は、どちらにもいい顔をしただけではないのか、という疑問も残る比喩ではなかったか。


ここからは、スピーチの内容

壁と卵 

 こんな風にぼくはエルサレムにやって来ました。小説家として、つまり
――嘘の紡ぎ手としてです。 

 ただ小説家だけが嘘をつく訳ではありません――政治家もそうですし(大統領には申し訳ないけれど)――外交官もそうです。ですが、ほかの人たちと違ったところもあります。ぼくらの嘘は訴えられることがありません……むしろ誉められさえするのです。嘘が大きければ、その分誉められさえするのです。
 
 ぼくらの嘘と彼らの嘘との違いは、ぼくらの嘘が「本当」を明かすことに手を貸すことです。「本当」を完璧に把握するのは難しい――だからぼくらは、それをフィクションの領域に移し換えるのです。ですからまず、ぼくらの嘘のどこに「本当」があるかはっきりさせておく必要があるでしょう。 

 今日、ぼくは「本当」を語ります。ぼくが嘘をつかないのは、一年の内数日だけです。今日はその内の一日です。
 

 受賞について尋ねられた時、ガザは戦闘状態だと警告されました。ぼくは自分に問いかけました……イスラエルを訪れることが正しい事かどうか? 片方に荷担することが?

 
 少し考えがありました。そこで行くことにしました。多くの小説家と同じ立場を、ぼくに言われていたこととは反対の立場をとることにした訳です。小説家としては自然なことでしょう。小説家は自分の目で見るか、自分の手で触れていないことを信じることが出来ません。ぼくは見ることを選びました。何も言わないことよりも、話すことを選びました。
 こんな風にぼくは述べに来たのです。 

 仮に壁が堅く高く、卵が潰えていようと、たとえどんなに壁が正しく、どんなに卵が間違っていようと、ぼくは卵の側に立ちます。

 
 何故でしょう? ぼくらはそれぞれが卵だからです、ユニークな魂が閉じこめられた、脆弱な卵だからです。ぼくらはそれぞれ高い壁に直面しています。高い壁とはすなわち、ぼくらに普段通り個人的には考えさせないよう仕向けている、システムにほかなりません。 

 ひとつだけ、小説を書く時に意識していることがあります、個々人の神々しいまでのユニークさを描き出すことです。そのユニークさを喜べるように。そしてまたシステムがぼくらを絡み取ってしまわないように。だからぼくは――人生についての物語を、愛についての物語を書いています。人々に笑い泣きしてもらえるように。

 
 ぼくら人なるものはすべて、個々の、脆弱な卵なのです。壁に逆らうことなどかないません……それはあまりに高く、陰気で、冷ややかなのですから。ぬくもりや強さを求めて魂をひとつにする、ぼくらはそうやって壁と戦うよりほかないのです。決してぼくらを、システムのコントロールに――ぼくらがつくったものに委ねてはなりません。ほかならぬぼくらが、そのシステムをつくったのですから。

   みなさんに、ぼくの本を読んでくれているイスラエルの人たちに感謝します。願わくば、ぼくらがなにがしか有意義なものを分かち合えますように。ぼくがここにいるのは、ほかでもないあなたたちのおかげなのですから。

So I have come to Jerusalem. I have a come as a novelist, that is - a spinner of lies. 

Novelists aren't the only ones who tell lies - politicians do (sorry, Mr. President) - and diplomats, too. But something distinguishes the novelists from the others. We aren't prosecuted for our lies: we are praised. And the bigger the lie, the more praise we get  The difference between our lies and their lies is that our lies help bring out the truth. It's hard to grasp the truth in its entirety - so we transfer it to the fictional realm. But first, we have to clarify where the truth lies within ourselves. 

Today, I will tell the truth. There are only a few days a year when I do not engage in telling lies. Today is one of them. 

When I was asked to accept this award, I was warned from coming here because of the fighting in Gaza. I asked myself: Is visiting Israel the proper thing to do? Will I be supporting one side? 

I gave it some thought. And I decided to come. Like most novelists, I like to do exactly the opposite of what I'm told. It's in my nature as a novelist. Novelists can't trust anything they haven't seen with their own eyes or touched with their own hands. So I chose to see. I chose to speak here rather than say nothing.So here is what I have come to say. 

If there is a hard, high wall and an egg that breaks against it, no matter how right the wall or how wrong the egg, I will stand on the side of the egg. 

Why? Because each of us is an egg, a unique soul enclosed in a fragile egg. Each of us is confronting a high wall. The high wall is the system which forces us to do the things we would not ordinarily see fit to do as individuals. 

I have only one purpose in writing novels, that is to draw out the unique divinity of the individual. To gratify uniqueness. To keep the system from tangling us. So - I write stories of life, love. Make people laugh and cry. 

We are all human beings, individuals, fragile eggs. We have no hope against the wall: it's too high, too dark, too cold. To fight the wall, we must join our souls together for warmth, strength. We must not let the system control us - create who we are. It is we who created the system. 

I am grateful to you, Israelis, for reading my books. I hope we are sharing something meaningful. You are the biggest reason why I am here. 
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2009年08月12日

近所の猫

数週間前から、近所の猫が遊びに来る。昼はよくわからないが、夕方から夜にかけて…鈴のついた首輪をしているから飼い猫であることは確か。

この猫のいいとことは会話になるところだ。
もちろん話せるわけではないが、こちらの呼び掛けにはきちんと返事をする。「にゃーおー」「にゃー」「ぐふぅ」

昨日、訪れたとき右目は閉じ涙が出ており、頭部の毛が抜け、右前肢の全体が腫れていた。けんかをしたのでしょう。
ただ、フィット・アリアのボンネット上でバッハのインベンションとシンフォニアを聴きながら尻尾をさかんに振っていた。速くない曲
ではけっこうテンポがあっていたよ。こんなところがこの猫のいいところ。それを向かいの猫がじっと眺めている。
















向かいの家の猫











今日(休み)は午前から遊びにきていた。目の傷はかなり良くなり、体調がいいのか、昨日とは違い気持ちよさそうに車の下でごろん・ゴロンしながら、のどをごろごろ鳴らしていました。


















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2009年07月19日

バセドウ病 11

 5月末の結果では、TSH(甲状腺刺激ホルモン)は最低値、
FreeT4,T3(甲状腺ホルモン)基準値を超えた。

やはりなあー、体調でわかるものだ。
 1. 4月上旬、薬を飲み忘れることが多かった。
 2. 転勤で少々ストレスが増加した。
原因としてはそんなところかな。

 メルカゾールは1錠から2錠/日になった。ヨウ化カリウム1錠/日はそのまま。

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2009年04月05日

バセドウ病 10

絢香、ピンクレディーのケイ:増田啓子、夏目雅子、田中角栄

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2009年01月10日

IE7、FirefoxとGoogle Chrome

3種類のブラウザのどれがいいか?
最近はMozilla Firefoxを中心に使っている。理由は…
このSeeSaaブログにYouTube貼り付けができるようになったらしいので試します。
「月にほえるダリ2」 http://blog.livedoor.jp/dali24/にのっけてみた
ウィントン・マルサリスのiPod adを貼り付け
(CDにはウィントン・マルサーリスと発音するのが一番近いと書いていた)
posted by サルバドール at 12:16| 北海道 霧| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

犬と猫は毎年35万匹…

「犬と猫は毎年35万匹殺されている」というのは、週間新潮の広告内の日本の「恐ろしい数字」より。

この数字と内容はともかく、昨年の10月の小さな事件。

(ところは嫁の実家)子猫が嫁の車のエンジンルームに下からもぐりこんでいた。JAFに頼んでやっとの思いで保護した。
もし鳴き声がなかったら、おそろしいことになっていた。1週間ほど家にいて、その間予防接種を施し大切に育てた。獣医師は生後2〜3ヶ月といったそうだ。ペットショップで観察すると、当たり前だが2〜3ヶ月の猫の大きさと行動そのものだった。トイレは猫砂ですぐできるし、犬よりペットとしてはいいのではなどと考えもしたが、結局もらわれていった。もう大分大きくなっているでしょう。あげなければよかったというのが家族全員の感想。
疑問だったのは、ムートン地の上を歩くときかなり警戒して、歩きたくない様子だった。なぜだろう。

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posted by サルバドール at 11:48| 北海道 霧| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする