2009年08月16日

1Q84 村上春樹

10日程前、村上春樹著「1Q84」を読み終えた。
感想文は私の最も苦手とするところ。
2冊で長編に分類されるが、おもしろかったのは事実。
ただ、いつもの比喩はさえわたってはいなかった。
これは、一人称の「僕」と今回の三人称に関係あるのかも。

CD販売店ではヤナーテェックの「シンフォニエッタ」の棚があった。
一応、予想通り。

私の感想より、それなりの人の書評は確かにうまい。

個人的には、福岡伸一の表現はわかるよ。


北海道新聞
2009614


評・黒古一夫(文芸評論家)


「魔=悪」が照らす本質


 著者が1995年に起こった阪神・淡路大震災とオウム真理教事件から、この世の中には理性や常識では解決できない「魔」としか呼びようのない何ものかが潜んでいると覚知し、以後追求すべき文学的主題を転換させてきたことはつとに知られている。5年ぶりの新作である本作品は、ジョージ・オーウェルの「逆ユートピア」を描いた近未来小説「一九八四年」からヒントを得て、「1Q84年」という「もう一つの年」に顕在化したカルト教団をめぐるさまざまな出来事 を描き、本質的な存在である「魔=悪」から目をそらしている私たちの「現在」を照らし出そうとしたものである。

 
 両親がキリスト教系の教団「証人会」信者であり、自分もその布教活動に連れ回されていた「青豆」と、父親でない男に乳を吸われている母親の姿を記憶の原点とする「天吾」は、10歳の時にお互いを必要な存在と意識するようになる。しかし、その後20年間、2人は会うこともなく、青豆は今ではスポーツジムのインストラクターをしながら「女の敵」を抹殺する裏の仕事もやり、天吾は予備校の講師をしながら小説を書いている。本長編は、この2人のついに邂逅することのない物語が交互に展開する形で進行する。物語を彩るのは、例えば学生運動であり、体制に背を向けた「コミューン」や「カルト教団」の分裂、現代版「駆け込み寺」の姿であり、「父子(家族)」の物語である。

  読者は、この小説の大切な要素でありながら、意味不明な(SF的な)「空気さなぎ」や「リトル・ピープル」とは何かなど、について思いを巡らしつつ、いつしか必死におのれの「思い」に忠実な青豆と天吾の「恋愛」成就を願うことになる。しかし、「魔=悪」はそんなに甘くなく、青豆は天吾と邂逅するまえに自死を選択せざるを得ず、物語は終わる。


 
 朝日新聞200967

[
評者]鴻巣友季子(翻訳家)

 
 「根源悪」を追究 何かが変わった

 
なにか吹っ切れた感じがする。あのとき感じた「意志」は実践されたのだ――7年ぶりの新作長編を読みだしてすぐにそう思った。前作の中編『アフターダー ク』には、深い森から踏みだす決意のような、飛び立つ直前の構えにも似た気配が漂っていた。『1Q84』には、新しい村上春樹がいる。読者は「何かが変わった」と感じるだろう。その一方、やはり村上ワールドは不変とも思うだろう。

 オウム真理教の問題に向きあい、90年代に2冊のノンフィクションを書いた作者が、事件から14年を経てカルト教団を素材に小説を発表した。舞台はイラン・イラク戦争が続くバブル以前の1984年。予備校講師をしながら小説家を目指す「天吾」と、スポーツジムに勤めながら非道な男たちの殺しを請け負う女性「青豆」2人の視点で交互に語られる。ある少女の暗示的な作品『空気さなぎ』を元に、危険な替え玉出版が企画された頃から、世界は変調をきたしていく。実在とおぼしき宗教団体や農業コミューン、家庭内暴力のためのシェルター、性描写も盛りこまれ、しかもパラレルワールドの仕掛けがあって、どこまでも飽きさせない。娯楽性も最も高いと言えるだろう。他方、これは「家をなくした子ら」の物語でもあり、書く(書き換える)ことと記憶と再生を巡るモチーフを布き、オーウェルの『1984』的な思想統制の恐怖と根源悪を追究した反ディストピア小説でもある。現実と虚構は境をなくし、因果関係が反転する。作者の扱ってきたテーマがぎっしりの力作だ。

 色々な人の視線とパースペクティブと世界観が絡みあうドストエフスキー的な小説を書きたい、それには三人称で書く必要がある、と近年の村上春樹は語ってきた。予告通り、本書は初の完全な三人称長編だ。なぜ作者が長らく一人称一視点の文体を多用したかと言えば、その形式でしか表現できない精神があったから。そこには全体を見通せないことの憂鬱が書きこまれ、いわば「視野狭窄」の不安感が物語の牽引力の一つとなっていた。一人称の可能性を駆使しながら、しかし村上春樹は三人称多視点の小説へ確実に近づいている観があった。人称と視点の変化は、作品の精神の変化を意味する。

 そうして周到に書かれたでろう『1Q84』は、「メランコリーの繭」とその温もりから抜けだした印象がある。淀みない筆致は各主題の掘り下げを潔く読者に委ねているようにも見える。主人公たちは教団リーダーの意思をも超えた根源悪に対する抗体として描かれるが、しかし敬虔な信仰とカルト的狂信の境界が極めて曖昧なように、人のいかなる信念にも狂気の影はつきまとう。ならば、「あなたのあり方自体が宗教だ」と教団リーダーに言わせるほど信念に揺らぎのない青豆と彼女が加担する「殺人グループ」にも、カルトの匂いが感じられはしまいか。

 三人称の導入が「色々な人の世界観」を引き入れ、人々の視点と多声が交わり響きあう小説となり得ていれば、信心と狂気、善と悪、夢とうつつの相対関係を当事者外の目でも浮かびあがらせ、主題を個人の秤だけに載せず、さらに多角的に描くことも可能だったろう。よく見れば、本作は一人称にほぼ変換可能な三人称一視点の並置で概ね書かれている。その点では、文体の基本構造は既作にも見られるものであり、変わった のは大方、人称だけで視点ではない。とはいえ、このあたりがまた「村上節」を堪能できる部分でもあるのだ。それにしても、未回収に終わる謎 伏線がずいぶん多いが、もしや第三巻以降が出るのでは?

 しかし続きがなくても、それはそれで作者の姿勢を鮮やかに表明するものではないか。作中、天吾の言葉にもある通り、読者が最後まで疑問の中に置かれるなら、それは「著者の意図したこと」なのだろう。本作には、書かれた物語と書かれなかった物語が同じぐらい豊潤に含まれている。読み手の中でいつまでも「書き直して」いける作品、それこそが傑作の名に値するのだ。

 メランコリーの夜は明けた。

 

読売新聞 200968 

存在内部の空白を埋める愛

 手にとればもう読むのをやめられない。あなたは現実世界の「いまとここ」を忘れ、待ちに待った村上春樹の新たな物語世界に没入している。「春樹的」と形容するほかない魅力的な比喩の数々。用いられる個々の表現の的確さとその響き、言葉と言葉、文と文のつながりを含め、どんな細部もゆるがせにしない、徹底的に考え抜かれ彫琢された音楽的な文章。頁を繰りながら魂の扉がとんとんと叩かれているのを感じるはずだ。扉を開く。すると心の内側なのか外側なのかわからないそこには、あなたのものであり、かつ誰のものでもある光景が開かれている。このきわめて親密でありながらどこか遠い普遍的な風景に出会うこと、あるいはそれを思い出すこと。村上春樹を読むとはそういうことだ。

 本作は各巻が24章から成り、奇数章では、指先に特殊な才能を持つ、青豆という風変わりな名の女性の物語が、偶数章では、天吾という小説家志望の予備校数学教師の物語が描かれる。青豆は首都高速道路の非常階段を降りることで、彼女が生きていた1984年の現実とは微妙に異なる「1Q84年」の世界に入り込んでしまう。一方、天吾も「ふかえり」という17歳の謎の少女の小説『空気さなぎ』を書き直したために奇妙な事態に巻き込まれ、彼のそれなりに充足した日常からは均衡が失われていく。

 青豆も天吾も不幸な幼年期を送っている。この小説に登場する多くの者は暴力の犠牲者であり、心と体を無惨に破壊されている。DV、児童虐待、宗教的狂信と名称は様々でも、暴力を生み暴力が生む「闇」は、いつの時代でも存在する以上、青豆と天吾の生きる1Q84年は、紛れもなく私たちの世界なのだと言える。

 物理的なものであれ象徴的なものであれ、暴力は人間の存在の内部に「空白」をうがつ。この空白をネガティブな力で埋め尽くし、底無しの虚無に変えようとうごめく巨大な闇に対して、小説に何ができるのか。村上春樹はそのことを問い続けてきた。答えは各自が各様に見つけるほかない。だがヒントはある。

 天吾は十歳のとき、ある女の子に手を握られる。そのとき彼女の存在の一部を、生命の温もりを確かに受け取り、それがずっと彼の意識の中心を満たしてきた。青豆もまた十歳のとき、一人の男の子に出会い、彼を一生愛し続けるのだと決意する。その愛が存在の中心にあればこそ、親友の自死など苛酷な経験を耐え、生き続けることができたのだった。強く、深く、人を思い続けること。そのとき世界は空に浮かぶ月とは違って孤独ではなくなる。これは途方もない愛の物語である。


評・小野正嗣
 おの・まさつぐ
 1970年、大分県生まれ。作家、明治学院大学専任講師。『にぎやかな湾に背負われた船』で三島賞。
 



遺伝子支配に対抗する均衡


 冒頭から読者は強い流れに引き込まれる。その強度はこれまでのどんな作品よりも大きい。やがて読者は当惑に直面する。「リトル・ピープル」をめぐって。夜ごと、山羊(やぎ)の口から出てきて「空気さなぎ」を作る不可思議なこびとたち。実体があるのかないのかわからず、善悪もわからない。ただそれは「着実に我々の足元を掘り崩していく」存在として登場する。

 リトル・ピープルは本書最大の謎である。それは1Q84年の世界において、目に見えないながら私たちの内部にひそむものとして描かれる。その点が オーウェルの『1984年』における、外的な支配者「ビッグ・ブラザー」とは違う。彼らは「山羊だろうが、鯨だろうが、えんどう豆だろうが。それが通路でさえあれば」(傍点は評者)姿を現し、私たちを徹底的に利用する。利用価値がなくなればたやすく乗り捨てていく。そういうものとして描かれる。

 現在、私たちは私たちの運命を収奪し、一義的に因果づける内的な存在を知り、それを信奉している。それはえんどう豆の研究から見いだされたところの遺伝子(的なもの)である。もちろん遺伝子は物質以外のなにものでもない。しかしひとたび、それが小さいながらも擬人化されて捉えられると、利己的な意思と意図を帯び、世界と私たちを支配するために動き出す。

 遺伝子の究極的な目的は永続的な自己複製である。「母(マザ)」からクローンとしての「娘(ドウタ)」を作り出すこと。そのメタファーが「空気さなぎ」ではないだろうか。

 しかし青豆は問う。「もし我々が単なる遺伝子の乗り物(キャリア)に過ぎないとしたら、我々のうちの少なからざるものが、どうして奇妙なかたちをとった人生を歩まなくてはならないのだろう」と。

 遺伝子が利己的な支配者に見えるのは、私たちがその物語を信じ、身を委ねたいからである。そこに私たちがたやすく切り崩されてしまう契機が潜んでいる。それはかつて外側に存在していたビッグ・ブラザーを内側に求めることに等しい。リトル・ピープルに象徴されるこのような不可避的で、それでいて誘惑的な決定論に対抗するには、一つ一つの人生を自分の物語として自分で語り直すしかない。重要なのはその均衡であり、均衡は動的なものとして、可能性の在処(ありか)を示す。そう本書は宣言している。

 私たちは時に合理性を無視し、利他的に行動しうる。その動因として私たちは自らの内部の核に、自らの複製ではない「さなぎ」をはぐくむことができる。本書の結末をそういう風に私は読んだ。

評・福岡伸一
 ふくおか・しんいち
 1959年、東京都生まれ。分子生物学者、青山学院大教授。著書に『生物と無生物のあいだ』『動的平衡』。
タグ:村上春樹
posted by サルバドール at 16:04| 北海道 曇り| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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